OB INTERVIEW
僕にとってかけがえのないクラブ
ーー波多野和也氏 インタビュー
──大学を卒業するころに、bjリーグができるという話はあったのですか
僕が専修大学を卒業するころに、bjリーグが始まるという話が聞こえてきたんです。でもまだ、本当にできるのかの確信はなかったんですよね。噂みたいな感じだったのですが、大学のコーチに「本当にできるから、興味があるならトライアウトを受けてみるか」と言われて。それで、トライアウトを受けたんです。トライアウトが行われたのは、大学を卒業してからでした。
──その話がなければ、普通に就職していたりした?
そうですね。静岡のある会社に、入ろうかなと思っていました。バスケ関係で知り合いの方がいましたし、会社にバスケのチームもあったんです。そこで働きながら、バスケを続けようかなと思っていました。その会社は実業団には入れないくらいの実力だったので、ちょうどいいかななんて思っていましたね。
──当時は実業団チームに入れる選手は、ほんのひと握り。バスケで食べていく選択肢は、ほぼない時代でした。そんなところにbjリーグができると聞いて、どう思いましたか
最初は、本当かなと思いましたね。でもできることが決まって、ちょっとワクワクはしましたね。bjリーグができると決まったときはまだ大学生だったので、嫌らしい話ですが、契約金があるのかなとか(笑)。最初は、どこにチームができるのかもわからなくて。やがてそれが発表されて、どこのチームに行きたいとか、契約金があるのかないのかみたいなことを友達同士で話をしていましたね。
──受けたトライアウトは、リーグの全体のトライアウトでしたよね
そうです。小田原アリーナで、朝から晩までやりましたね。僕が最初に聞いていた話では、午前中に体力テストをやって、午後にスキル系のテストをやる。合格になる人たちは、そこで終わり。その後に残ったメンバーで5対5をやるというのが、噂であったんです。それで行ってみたら、僕は最後まで残されて。これはマズいと思いながら、最後までやりました。それが終わってから、次は有明に来てくださいという通知がきたんです。トライアウトは書類選考が1次で、2次が小田原での実技。3次が有明だったんですよ。有明に来てくれとの通知をもらって、初めてトライアウトの全体の流れを知ったという感じでしたね。
──3次審査が終わって、次はドラフト会議になる
そうです、はい。
──ドラフトの前に内定のように、実はどこのチームから指名があるか決まっていたようなことはあったのですか
いや、僕に関してはなかったですね。前日だったか前々日くらいにbjリーグの方からドラフト会議に来てくださいと連絡があって。「ということは、指名されるのかな」とは思いますよね(笑)。それまで実業団でやっていてbjリーグに移籍する選手に関しては、もしかしたら内定みたいなものはあったのかもしれませんが、僕たち大学生あがりの選手には、そういうことはなかったと思いますよ。
──なにも知らず、そもそも指名されるのか。そういう不安も抱えながら、ドラフト会場に行っていたのですね
そうでしたね。でもリーグから会場に来てくださいということだったので、何番目かはわからないですけど、指名されるんじゃないかなという気持ちでいました。
──そしてドラフト当日は、大阪エヴェッサから1巡目で指名を受けました。そのときは率直に、どう思いましたか
大阪か、ちょっと遠いなと思いましたね(笑)。もちろん選んでもらったことはうれしかったのですが、それまで大阪という土地とはまったく縁がなくて……。ヘッドコーチになる天日(謙作)さんのことも、まったく知らない。僕にとっては、未知の世界でしたね。できることなら、関東のチームがいいなとは思っていましたが(笑)、ドラフトで決まったからには、行くしかないですからね。親にも知らせて、大阪に行くと腹を括りました。
──そうやって集まった日本人選手は大卒ルーキーを中心に、近い年齢のメンバーでしたね
城宝(匡史)、チョモ(中村友也)、ハル(宍戸治一)とは同い年。カズ(太田和利)さんがひとつ上で、タケ(竹田智史)さんがふたつ上。バシ(石橋晴行)さんは、ちょっと年上でした。そんなメンバーでしたね。
──まったく形がないところから集まって、チームとしての第一印象はいかがでしたか
そのとき知っていたのが、チョモとハルだけだったんですよね。城宝は関西の大学だったので知らなかった。どういう感じになるんだろうなって、思っていましたね。最初のころの練習は、そんなにバスケットをやっていなかったんですよ。どちらかというと、体力系のメニューが多かった。
──石橋さんによると、それがだれだとは言っていませんでしたが「僕らはバスケットをしに来たんだ」と言った選手がいたとか
それきっと、僕です(笑)。ずっと外ばっかり走っていて、いちばん年上だったバシさんにそういうことを言いましたね。「オレはバスケをやりに来たんですけど。天日さんに言っていいですか」って言ったら、「ちょっと待て。それはオレが聞いてみる」みたいな話になりましたね。
──同級生も多かったし、当時は大学の延長みたいなところもあったのでは
それは、ちょっとありましたね。同級生がいたから、続けられた部分もあったと思うんです。最初の印象が「バスケしに来たのに、ずっと走ってるってどういうこと?」という感じでしたから。同級生がいたから、続けられたのもありますね。
──そうしたトレーニングを経て、11月にリーグ初年度の開幕を迎えます。プロリーグが始まる、ワクワクした感じはありましたか
もちろん、ありましたよ。それまで実業団の試合を見に行ったことはありましたが、それしか知らなかったですから。当時の実業団は会社の応援団がいて、太鼓を叩きながら「ディフェンス、ディフェンス!」とやっていて、正直なところ小規模な感じでした。それがプロの試合になれば、会場の雰囲気とかはどうなるんだろうと楽しみでしたね。
──なみはやドームでのbjリーグ開幕戦は4190人と、満員の観衆のなかで迎えました
本当に、すごいなと思いました。演出もNBAみたいに派手だし、ブースターさんの盛り上がりも、僕が見た実業団の試合とは全然違っていました。これがプロなんだなと感動しましたし、日本のバスケットは変わるとすごく感じましたね。
──記念すべき開幕戦は、スターティングメンバーで出場しました
相手は、大分ヒートデビルズでしたよね。開幕戦は負けて、相手のポイントカードの外国籍選手に40点くらい取られた記憶があります。
──当時は外国籍選手の、オンコートルールがありませんでしたね
なかったですね。開幕戦のスタートはマット(・ロティック)、リン(・ワシントン)、ジェフ(・ニュートン)、日本人は僕と……、だれだったかな。城宝はそのとき、スタートではなかったと思うんです。それから試合を重ねていくうちに、僕がスタートで5分くらい出たら、デイビット(・パルマー)と変わる形ができていったんですよ。
──そこからデイビッドが、シックスマンに定着して
そうそう。それで一度、天日さんに聞いたことがあるんですよ。僕がスタートから出て、いつも5分くらいするとデイビッドと交替するから「天日さん、最初からデイビッドをスタートにしたらいいんじゃないですか」って。そしたら天日さんは「いや、J。お前をシックスマンで出すのは怖い」って言われて。そうか、それはしょうがないですよねって、納得しました(笑)。
──リーグ開幕戦は緊張しましたか
緊張しましたよ、やっぱり。でも僕は開幕戦に限らず、いつも試合前に緊張していたんです。試合が始まる前は必ず、トイレに行って吐いていました。緊張で。エヴェッサにいたころは、自分が試合で仕事をしないといけないプレッシャーから、そういうことがずっとでしたね。もう、みんなのネタになっていました。「また、トイレに行ったぜ」って(笑)。
──それはとくにルーキーのころに、過大に売り出された影響もありましたか
あれも当時は、正直に言うとストレスでしたね。なんか僕を、すごいスーパースターのように扱ってくれたじゃないですか。今思うと会社の戦略として、だれかメディアに出す選手が必要だったことを今では理解できるんですけど、当時はプロの経験が始まったばかりじゃないですか。それが自分の役割のひとつだと、わかっていない。でも、売り出される。“波多野和也はすごいスーパースターだ”みたいな感じで出してくれても、自分のなかでは「そんな実力ねぇし」という葛藤もありしました。
──当時はメディア対応やイベント出演に、駆り出され続けていましたもんね
そうですね。なにかあるごとに「J、J、J」って。もう、勘弁してくれよって感じでした。いくら会社が売り出してくれても、バスケの実力がそれにともなっていないことは、自分でわかっていましたから。でもやがて「それだったら、そこに少しでも近づけるように頑張ろう」という気持ちに切り替わってから、だんだんとストレスが減っていきました。売り出されることの意味を、少しずつ理解していったのもあるかなと思います。プロ選手として成長していけたから理解できてきて、それがストレスが減った要因だったのかもしれません。
──1季目のシーズンに話を戻すと、チームはできたばかりで、メンバーも多くは大学を出たばかりの選手。勢いのまま、ずっと突っ走っていった感じでしたか
1季目は、絶対に優勝すると目標が明確でしたから。1季目で優勝すれば、絶対に忘れられないじゃないですか。初年度に優勝した大阪エヴェッサのメンバーは、こいつらだって。その目標は僕にもあったし、チームも絶対に優勝だと目標を明確にしていました。僕もメディア対応などいろいろとストレスはありましたが、優勝という目標に関しては明確でしたね。
──大学生のころは、外国籍選手とチームメートになることはなかったですよね
なかったですね。だから、新鮮でした。でも僕、すごく怒られたんですよ。とくにリンには、すごく怒られました。でもそれは勝つために言ってくれていたことだし、今ではもう全然なんとも思っていない。リンが引っ張ってくたから、僕らが優勝できたのは間違いない。だけど、その裏でバシさんが動いてくれていたことも、言っておきたいです。バシさんは実業団でもプレーしていたので、外国人選手との接し方もわかっていた。僕やだれかが外国籍選手に怒られでも、バシさんがフォローしてくれていたんです。そういうことがあったから、チームとしてバランスが取れていたんじゃないかな。
──1季目からチームは強かった。早い時期にこれは……という、手応えはありましたか
開幕戦で、いきなり負けたじゃないですか。そこでやべえなと思いましたが、その後は勝ち続けたんじゃないかな。あの当時は優勝するのは、新潟(アルビレックスB.B.)じゃないかと言われていたんですよ。だけどシーズン終盤に初めて新潟のホームでプレーさせてもらったときに、勝ったんですよ。そのあたりから、チーム全体がいけるんじゃないかとなったと思うんですよね。
──当時の新潟は、ブースターが熱狂的でしたよね
試合会場は僕が知っていた今までの実業団リーグのイメージとはまったく違って、僕らにはものすごいブーイング。リンはエヴェッサの前に新潟にいたので、コートに入ってきたら、さらにすごいブーイングでした。これが、プロなのかと思いました。そんな完全アウェイのなかで優勝を争うライバルに勝って、そこから“イケる!”となりましたね。
──そうしてレギュラーシーズンを1位で勝ち上がり、有明コロシアムで行われるプレイオフにコマを進めました。これももちろん初めての経験ですし、すべてが一発勝負。ここで負けたら……
今までのことが全部、意味がなくなっていまいますからね。あのときも、ひどく緊張しました。お客さんも、多かったじゃないですか。どれだけ近くにいても、選手同士の声が聞こえないんですよ。そんななかでも、みんなで「行こうぜ!」という気持ちは強かったですね。
──初日のセミファイナルは、仙台89ERSに79-76と接戦の末に勝利。翌日のファイナルの相手は新潟でした。試合は終盤に突き放して、74-64で勝利。試合終了のブザーを聞いて、どんな思いが込み上げてきましたか
『やった!』という気持ちより先に、やっと終わった安堵感が先にありましたね。ずっと自分の実力以上に持ち上げられたりして、プレッシャーやストレスもありましたから。そこからの解放が、最初にあったんだと思います。うれしいとかの感情は、一歩遅れてきた記憶がありますね。
──優勝のセレモニーであるネットカットも、みんながどうしていいかわからないような、ぎこちないものでしたね。
そうそう(笑)。1年目のネットカットは僕がひとりで全部、切ったんですよ。あのときは、周りが僕をすごく持ち上げてくれていましたから。
──選手もスタッフも、そもそもネットカットの作法を知らなかったからね
知らなかったですよ(笑)。日本バスケの文化に、そんなものはなかったですから。僕も切ってくれと言われて「えっ、僕がですか」という感じでしたから。NBAでがやっているのは見たことがあるけど、実際にやったことはないし、どういうふうにやるのかもわからない。2季目からひとりずつ切ってとなりましたけど、1季目は僕だけなんです。あのとき、外国籍選手はどういう気持ちだったんだろう(笑)。
──初優勝の余韻に浸ったのもわずかで夏には新チームが始動し、11月には2季目のシーズンが開幕します。ルーキーだった1季目に広報活動に引っ張り出されていたりとストレスも多かったとのことですが、このころには多少なりともそれが解消されていましたか
2季目の広報活動であったりは、免疫力がついてメンタル的にも落ち着いてできていましたね。その2季目にテレビCMに起用されたんですよ。いろんな人から良いお言葉をかけていただいて、ありがたかったですね。
──御堂筋沿いのビルに、大きな写真が貼られていましたね
あれはなんか、プロっぽいなと思いましたね(笑)。あのころは自分が置かれている現状を前向きに捉えられるようになっていて、会社がこれだけやってくれているんだから、僕も頑張らないといけない。もっと、自分の実力を上げないといけないとなっていましたね。
──1季目はプレッシャーだったことを、2季目はモチベーションに変えられるようになった?
そうですね。2季目のある日に、駅で僕のアンチというより、bjリーグに対してアンチな実業団リーグのファンの方と出くわしました。その人は僕に向かって「バスケはこっちでしょ。あんたたち、大したことないじゃん」みたいなことを言ったんです。1季目だったら僕は「なんだよ」みたいな感じでやりあって、エヴェッサに苦情が行っていたと思うんです(笑)。でももうそのころは、「お互いの良さがあるからいいんじゃないの」と、落ち着いた気持ちで対応できたんですよね。それは1季目の経験があって、成長したからなのかな。そういったメンタル面でも、成長できていたのかなと思います。
──当時の実業団リーグとbjリーグは、目指す方向が明らかに違いましたもんね
もう全然、違いましたよね。僕らはエンターテイメント性を求めていて、そうしてバスケットを見る人口を増やしたい意図もありました。じゃあbjリーグと実業団リーグの、どっちを見て楽しいのか。それは、見る人によって違う。僕たちは、僕らがやっている空間に来てもらったら、絶対に楽しいと思っている。だからほかを批判する必要は、まったくないじゃないですか。どっちがどっちだというのは、それからもずっと続きましたが、そこは割り切っていました。僕ら選手もスタッフも、気にしていなかったんですよ。ブースターさんのなかには気にされていた方もいたと思いますが、僕たちは気にしていなかったですね。
──それまでのバスケは競技者が“する”スポーツでしたが、観戦者が“見る”ものにしたという点では、bjリーグの価値は大きいと思います
僕も日本のバスケット界がこれほど大きくなったのは、間違いなくbjリーグのおかげだと思います。あのときに6つのクラブが初めてプロチームを作り、みんな模索しながら、苦しみながら進んできた。それがなければ、今のバスケット界はないと思うんです。そこに参加した全員は、今のバスケット界に不可欠なメンバーだったんですよ。bjリーグは今の日本のバスケットボール界に、すごく大きな貢献をしたと思います。
──その第一歩にいたことは、自分の中で誇らしいことですか
それは、間違いありません。今のバスケット界をこうやって大きくしたのは、僕らのおかげだと自負しています。あまり大きく言うと「オマエ、なに言ってんだよ」って、怒られてしまうかもしれませんが(笑)。
──2季目は序盤に連敗するなどつまずきましたが、当時のチームの雰囲気はいかがでしたか
メンバーは前の1季目とあまり替わらず、そのころも変わらずリンには怒られたりしていましたが(笑)、みんな仲が良かったんですよ。外国籍選手とも、よく飲みにも行っていましたしね。前季にみんなで優勝を達成できて絆はより一層深まりましたし、だから2季目も「また行くぞ」という結束が強かったですね。
──結果的には、終盤にラストスパートをかけてV2を達成しました
2季目はほかのチームに対してより、自分たちの勝率を上げることに向かっていました。新しいチームも増えて、あのときは新規参入だったけど、高松ファイブアローズが強かったんですよね。ほかのチームも強いとは感じていましたが、それよりもベクトルは自分たちに向けていました。ファイナルで高松に勝って、やっぱり僕らは強いんだと再認識しました。
──V2を達成し、3季目のチームは開幕から敵なしの状態でしたよね。天日HCもその時期は「今季の僕らは、全勝できるんじゃないか」と手応えを語っていました
でも開幕早々に、リンが大きなケガをしてしまって……。そこまでは本当に、僕らは強いと感じていました。試合をしていても全然、負ける気がしなかったんですよ。
──大黒柱が、長期離脱することになった。そのことは、自身にどんな影響がありましたか
リンがケガをして、僕のプレータイムが増えたんですよ。そこで僕は僕なりに、自分ができることをやらないとけない。そう思ってリバウンドやディフェンスで、よりいっそう頑張りました。
──3季目はリンがケガをしてからチームの内情も、シーズンの流れも大きく変わりましたよね
そうですね。すごい能力の持ち主のマイキー・マーシャルが新しく入ってきて、活躍してくれました。でも彼はアウトサイドプレーヤーで、退団したデイビッドの替わりでもあったんですよね。リンはゴール下の強さがありましたし、なによりリーダーシップがあった。みんなリンが帰ってくるまでは、踏ん張ろうと頑張っていましたね。それがあったから、いい方向に流れたと思うんです。
──当時も主力としてプレーしていましたが、リンが抜けたことで、また変なプレッシャーが自分にかかったりしていませんでしたか
プレッシャーというより、リンがいなくても僕はやれることを見せる。それを、モチベーションにしたんですよ。現にあのときに天日さんがプレータイムを増やしてくれて、それで自分がやれるんだということを表現できたと思うんですよね。
──エヴェッサにいた4シーズンのなかでは、もっとも成長したシーズンだったのでは
そうですね。あのシーズンが、いちばん得点を獲っているんじゃないですかね。リバウンドも、そうかな。あの3シーズン目は、僕の成長した姿をブースターに見せられたのかなと思います。
──リンのケガがあったり自分の意識の変化もあったりで、3回目の優勝は過去2回と違う感慨があったのでは
あのときは「やっと終わった」ではなく、これが本当に優勝した喜びというのですかね。「3回やったぜ」という思いが湧いてきましたし、このためにやってきたんだと素直に喜びました。
──エヴェッサに在籍した4シーズンは、社会人としても世に出た最初の時期でした。かなり濃厚な時間でしたね
だいぶ、濃厚でしたね。
──プロのバスケットボール選手として大阪にいた4シーズンを振り返ると、どんな思いがありますか
エヴェッサにいた4シーズンはバスケットに対する向き合い方であったり、プロ選手としてあるべき姿を学びました。それこそ、メディアの対応であったりとか(苦笑)。本当に人と喋るのが苦手で、めちゃくちゃ人見知りだったんですよ。大阪という街に行って、人と喋れるようになってったんですよね。大阪の人は気さくで、ただ大きいからって僕に話しかけてくる人も普通にいましたから(笑)。
──最初のころはインタビューをしても、なかなか目を見て話してくれなかったことを覚えています(笑)
人見知りなのにメディアに出されるストレスがあったりして、なんとかそれを乗り越えて対応していたんですよ(笑)。当時の対応が100%正しかったかはわかりませんが、あのころに経験したことは後々に思うと貴重でした。バスケットは天日さんから、プロ選手はどうあるべきかを学びました。今でも忘れませんが、天日さんに「24時間バスケットのことを考えろ」と言われたことがあるんですよ。当時は「なにを言ってんだろう、この人は」と思っていました。
──その言葉が、後々に響いた?
はい。自分の引退に近づくにつれて、指導者になることを考え始めてから「そりゃそうだよな」と理解できるようになったんです。天日さんが言っていたこと、僕に伝えたかったことは「プロでやっているんだから、24時間バスケットのこと考えないといけない。それが仕事なんだ」ということなんですよね。天日さんは僕にバスケットに対する向き合い方を教えてくれましたし、あの4シーズンは学びが多かったですね。
──あの4シーズンがあったから、長く現役を続けられた一面もあったのでは
それはもう、間違いないです。あのエヴェッサでの時間がなかったら、もしかすると引退はもうちょっと早かったかもしれないですね。僕はエヴェッサに行って、やっと人と接せられるようになったし。間違いなく、人として成長させてくれたと思います。
──エヴェッサを離れてからは複数回の移籍を重ね、最後的には2019年にエヴェッサの3人制チームでプレーしたのを最後に引退することになります。あれは、以前から決まっていたのか。あるいは、流れでそうなったのですか
実は僕が引退することになる年、天日さんがエヴェッサに帰ってきて、2シーズン目でしたかね。天日さんから僕に、電話があったんですよ。「J、俺の下でアシスタントコーチやれへんか」って。それで僕は「すみません。僕はまだ、現役でやりたいです」と答えたら、「そうか。プレーヤー兼コーチはどうだ」みたいな話になって。少し考えさせてもらったんですけど「天日さん、やっぱりお受けできないです。それであれば僕は子どもたちを教えたいので、そっちの道に進みます」と言ってお断りさせてもらったんです。
──天日さんとのそのやりとりで、気持ちが現役引退に傾いていった?
そうですね。天日さんからコーチのお誘いをいただいて、自分がもう選手としては見られていないんだなと思ったんです。そのときに、もう引退しようと。始まりも天日さんだし、最後も天日さん。それはそれでありがたいなと思って、引退をすると決めたんです。
──エヴェッサの3人制チームへの参加の経緯と、参加を決めるに至った心の動きは?
天日さんとのやりとりの終わりのころに、ショータ(今野翔太)から「Jさん、オフの間は3人制でやりませんか」と誘いがあったんです。5人制ではないけど、最後に大阪エヴェッサのユニフォームを着て終わる。それもありだなと思ったので、引き受けました。それで参加して3人制のシーズンが終わってから、引退を発表させてもらいました。あの流れは、たまたまですね。でも始まりも終わりもエヴェッサで、本当に良かったです。
──引退してから少し時間が経ちましたが今あらためて、自分にとって大阪エヴェッサはどういう存在ですか
本当に、かけがえのないクラブですね。僕のプロキャリアをスタートできたチームだし、終わらせてくれたチームですから。ほかでプレーしたチームも、ちろん好きですよ。でもいちばん長くいたのは、エヴェッサ。僕にとってエヴェッサが大きな存在なのは、ほかのチームで関わった方々もわかってくれていると思います。現役をエヴェッサで終われるとは思っていなかったので、最後は気持ち良く終われました。今でも僕にとってはすごく特別なクラブであり、チームですね。