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OB INTERVIEW
始まりはただ、必死でした
ー天日謙作氏インタビュー


 

 
──bjリーグができるという話が出てきたころ、天日さんは松下電器でバスケの現場から離れていましたよね

クビになったところでしたね(笑)。僕は多分ね、JBLでシーズン途中でクビになった初めてのヘッドコーチ(HC)だと思うんです。あのときは会社のチームやから、シーズンの途中でクビになる人はいなかったんですよね。それもまあ、いい思い出でしょう。そんな状態でした

 
──それ以前からバスケットボール界では、bjリーグができるという話は出ていたのですか

出ていましたが、僕ははあまり知らなかったです。最初にそういう話を聞いたのは、僕が松下電器のHCをクビになって、宣伝の部署で働いているころでした。僕の高校時代のコーチだった先生に「bjリーグというものが始まるらしいから、お前行ってみるか」と言われたのが初めてです。それが、4月の頭とかでしたかね。11月に開幕する、その年の4月です。

 
──2005年ですよね。高校時代のコーチからその話を聞いて、どう思いましたか。大きな会社に勤められていたのに、海のものとも山のものともわからないところに行ってみないかと言われて

そうなんですよ。今も思います、なんで辞めたんかなって(笑)。その前に僕は松下電器でポール・ウェストヘッドHCの下でアシスタントコーチ(AC)をやらせてもらって、彼にすごい衝撃を受けたんです。コーチって、こういう人やなと思いました。それがあったから、自分もHCをやってみたい思いは、すごくあったんですよね。エヴェッサから話をもらったときは、自分にとってエエのとちゃうかと思いました。僕はそっち行くべきちゃうかなと思ったんですよね。

 
──勢い任せみたいなところも、ありましたか

すごく、そうでしたね。妻にはオファーを受けてから話したので、めっちゃ怒ってました。なんでやねんって(笑)。サラリーは驚くほど下がるし、上原(光徳、初代社長)さんと会ったら1年契約だと言うし(笑)。

 
──1季目はまったく、なんの形もないところからのチーム作り。先に日本人のドラフトがあって、それから外国籍選手の獲得の流れでしたよね

そうですね。最初に、日本人のドラフトがありましたね。

 
──ドラフトのあとで天日さんがアメリカ行って、外国籍選手を獲得すべくトライアウトを開催されましたよね

それは、僕が行きましたね。

 
──このときはリーグなどが関与しない、天日さん独自のトライアウトだったんですか

僕だけでした。松下電器で選手としていっしょにやっていたデイビッド・ブースに、トライアウトをやりたいと電話したんです。事前に僕はガードもいるし、いいサイズの大きい選手もいる。それでサラリーはこれくらいと言って、その条件でやりたいやつを集めてくれへんかと伝えたんです。そうしたら彼が19人の選手を集めてくれて、サクラメントの体育館でトライアウトを2日間やりました。そこでデイビッド・パルマーとマット・ロティック、それからリン・ワシントンを獲りました。

 
──ワシントンは新潟アルビレックスB.B.でプレーしていた経験がありましたが、彼もトライアウトに来ていたのですか

来ていました。彼は新潟でやっていたころに、少しプレーを見たことがありました。いい選手だけど小っちゃくて、サイズが足らないかなと思っていたいんです。でも彼はトライアウトに集まった19人のなかで、明らかにいちばんいい選手でした。デイビッド・ブースと「小っちゃいけど、いちばんいいやつを取らへんのはおかしいよなと」話して、獲りました。

 
──ジェフ・ニュートンの獲得は、どういう経緯でしたか

ジェフの場合は、ちょっと面白いんですよ。最初は半分エージェントをやっていたアメリカ人の友達を介して、オハイオまで行ってロット・フラワーズという選手を獲ろうとなったんです。彼が来られるのは8月で、いちばん遅いみたいなことになっていたと思うんです。その前にはもう、リンたちは来ていました。でもフラワーズ選手は直前になって、お母さんかおばあちゃんか病気になって日本に行けないと言っているとエージェントから連絡があったんです。それでエージェントに「どうすんねん、センターが必要やねん」と言ったら、「いやエエのがおるねん。ビデオ送るから」って。それで送られてきたVHSのビデオに映っていたのが、ジェフだったんです。

 
──ビデオの映像だけを見て獲得を判断するのは、怖いですよね

怖いけれど仕方がないから、ほんならジェフなと獲得を決めたんですよ。これは後に、そのときに通訳をされていた方から聞いた話です。「センターの選手が来ないらしいが、どうするんだ。だれが来るねん」とリンが言って、通訳の方は「ジェフ・ニュートンって選手が来るらしいよ」と。そうしたらリンが「マジか! そいつ、オレのマブや」となったらしいんですよ。ジェフが来たのは、すごくラッキーでした。

 
──そのときに獲得した4人、デイビッドはV2を達成したあとに退団しましたが彼らが3連覇をはじめ、初期のエヴェッサのに大きなキーマンになりましたよね

彼らは4人とも、すごく良い選手でした。人間的にも、素晴らしい人たちでしたね。仲は良いけど、練習ではよくケンカしていましたよ。

 
──普段の仲が良くて、仕事場でケンカできるのは理想的な関係ですよね

もう、すごかったですよ。リンとジェフはマブなのにケンカするし、リンとマットはいつもガツガツしてるし、デビットはワイワイ言うてるし。でも練習が終わったら「今日はシンドかったな」って言いながら、みんなでいっしょに帰っていく。それって、スポーツ選手のいいところですよ、今はあんまり、そういう人もいないですけど。

 
──一方で日本人は大学生上がりの若い選手が中心でしたよね。彼らは経験がないだけにHCとしても、いろいろと大変だったのではないですか

そうですね。アメリカ人選手が来る前、7月くらいに日本人選手を集めて桜宮高校で練習をしたんです。その日はたしかに暑かったですが、選手は動けていない。彼らはコンディショニング不足なんだと、すぐに思ったんです。その練習が終わってすぐにスケジュールを変えて、来週からか明日からだったかは忘れたけど、朝の6時に鶴見緑地に集合してトラックトレーニングを始めたんですよ。それでコンディションが上がったので、すごく良かった。最初は鶴見緑地で、ひたすら走っていましたね。

 
──そのころは波多野(和也)くんが「オレ、バスケしに来たのに。なんで、外ばっかり走っているの」と思っていたそうです

そうなんですか。彼にしたら、陸上選手みたいに走らされていましたからね(笑)。

 
──当時の日本人選手で、ある程度の経験があったのは石橋(晴行)くんくらいでしたよね

そうですね。日本人はほとんどが大学を出たばかりで、経験のある選手はほぼいなかったですね。

 
──そこに外国籍選手も合流して、最初のころのチームの様子はいかがでしたか

彼らが来る前に、アウトラインだけは日本人選手とやっていたんです。すごくスマートな4人の外国籍選手がそこに入って、「こんな感じね」と言って、さっとやり始める。そんな感じでやっていましたね。だから違和感は、それほどなかったですね。

 
──チームの立ち上げは、スムーズだったんですね

そうですね。「オイ、オイ」と思ったのは、外国籍選手同士がケンカすること(笑)。「まあエエやん、ほっとけ」みたいな感じで、やっていました。

 
──2005年11月5日に、bjリーグの開幕戦をホームで迎えました、前日はどんな心境だったか覚えていますか

全然、覚えていないですね。僕は観客席とか周りの状況は今でも全然、関係がない人なんですよ。お客さんが1万人でも45人でも、いっしょなんです。だからか緊張したとか、そんなことはなかったですね。

 
──その開幕戦は、大分ヒートデビルズのガードの外国籍選手ひとりに活躍されて負けました

50点くらい、やられましたね。

 
──「大丈夫か、これ」とは、思いませんでしたか

まあ、あんな選手もおるよなって。アメリカ人のカードって、すごい得点力あるから。もう、どうもならへんなんよね、あんなのって感じでした。試合後にも「ああいう選手がいるから、大変だよな」とは比嘉(靖、アシスタントコーチ)と話しました。でもあのゲームで僕がよく覚えているのは、最後はクロスゲームだったんすよね。そこまでいったし、用意したことはちゃんとできたから、すごく良かったんです。全然、ダメやったわけではなかったですね。

 
──開幕してから波多野くんをはじめ、経験がなかった日本人選手たちは、どう成長していきましたか

J(波多野の愛称)は僕の理解ではすごく頭のいい人なんです。彼は自分がこのチームの、この部分をやるということがすぐにわかった。自分の役割以外のところで、自分にその力がないのにやろうとする人ではなかったです。彼は自分の役割は、リバウンドとゴール周りだと認識していました。そこでハッスルしてくれたから、すごく使いやすかったです。ハル(宍戸治一)も開幕前の夏の時期はちょっと迷いがありましたが、自分はバックアップだと理解して、それをちゃんとやってくれた。そうして、みんながスマートにやってくれたんですよね。そうなるには、外国籍選手のリーダーシップもありました。なかでもリン・ワシントンとマット・ロティックは、すごくいいリーダーシップを持っていましたね。

 
──質の良い外国籍選手を多く獲得できたことも、最初の優勝に大きく関与しましたね

それは、めちゃくちゃ大きかったですね。コートでプレーするのは、選手ですから。マットはスタンフォード大出身で、チームがすごく良かったときのコンボガード。bjリーグが始まってから、仙台89ERSのHCだった浜口(炎)くんに、「マット・ロティックって、どうやって獲ってきたんですか、彼はスタンフォード大の、トップガードですよ」と言われたんです。実は僕はそのことを、知らなかったんですよ。マットがトライアウトに来て、彼のプレーを見てコイツは絶対やと思って獲ったんです。

 
──1季目はどのくらいから、優勝できるとの手応えが出てきましたか

僕はそういう手応えは、あまり感じない人なので。最後の最後まで、そんな感じでしたよ。勝ってはいただろうけど、勝敗の細かいことは覚えていない。あまりにも一生懸命で、先々のことは考えらませんでした。それでも窮屈な感じではなくて、楽しくやっていましたね。

 
──bjリーグの1シーズン目はだれもプロリーグの経験がなく、みんながただただ、一生懸命でした。天日さんとしても初めてのプロリーグで、そういったことはありましたか

もうとにかく、必死にやっていましたね。当時の僕は、39歳くらいだったかな。給料がめっちゃ減って、子どもはまだ小っちゃいし、妻にブーブー言われるし(苦笑)。ホンマに背水の陣というか、まったく余裕がないところでやっていました。とはいえ、そんなことを言い訳にできない状況でしたからね。

 
──初年度は勝ち進み、有明で初めてのファイナルを迎えました。決勝の舞台に立つことに、思うところはありましたか

有明で決勝の舞台に立つこと以前に、bjリーグはいい会場を作ったなと思いました。すごくいい雰囲気で、楽しいなと思ってやっていましたね。

 
──優勝しないといけない。そのプレッシャーは、ありませんでしたか

フロントは勝たなアカンと言うてはったから、最初はそれありました。でもさっき言ったみたいに、僕はそれも考える余裕がなかったから。自分がやることに集中していたので、そういうことをまったく感じてやっていなかったですね。

 
──新潟アルビレックスB.B.とのファイナルは、終盤まで接戦でした。試合終了のブザーが鳴ったときの気持ちは、覚えていますか

1季目のファイナルの相手は、新潟でしたね。だけどゲームの内容は、本当に覚えていないです(笑)。この試合に関わらず何点差で勝った、負けたとかは覚えていないんですよ。それよりも主力選手がケガで出られず、替わりに出した選手がちょっとでも活躍したとか。そういったことのほうが、覚えているんですよね。

 
──翌季にV2を達成しました。主力メンバーは替わらずで、順当に連覇を達成したと思われがちですが、実は開幕からは苦戦しましたよね

2季目は最初、5連敗したんですよね。周りもこれ、どないなってんねんとなって。僕も実際に、大丈夫かよと思っていました。それで5敗目を喫した、アウェーの新潟の帰りやったんちゃうかな。高速のサービスエリアで休憩してからバスに乗るときに、マットが僕に「コーチ、オレたち大丈夫だよ」って言ったんですよ。そのときに「こいつら、大丈夫なんやろな」と思いました。それは、すごく覚えています。

 
──頼もしい、ひと言ですね

そう思いましたね。彼らはすごく、大人だったんです。オレたちのチームは大丈夫だという自信を、彼らがちゃんと持っていた。チームになるためにコーチがリードすることもありますが、彼らは自分たち自身でチームになっている。そのことが、すごく感じられたんです。そういうことが感じられたのは、彼らといっしょのときだけとちゃうかなと、今でも思います。

 
──そんなマットやリンのリーダーシップで、若い日本人も引っ張り上げられた

そう、思いますね。リンは人間としても、素晴らしい男なんです。僕がいっしょにやった5シーズンで彼は、練習前のシューティングなんかを(田村)大輔や(今野)翔太とか、試合にあまり出なさそうな選手とやっていたんです。チームにあまり関与できていない選手でも、トップの選手といっしょに練習していたら、それが彼らのモチベーションにつながる。本当のところはリンに聞いてみないとわからないけど、僕は彼がチームケミストリーのためにやってるんちゃうかなと思って、ずっと見ていましたね。

 
──3連覇を目指した2007-08は、序盤戦でワシントンが大ケガを負って長くチームを離れざるを得ないアクシデントが発生しました

エヴェッサのHCをやった最初の5シーズンで、それがいちばん印象に残っています。あれはシーズン最初のほうの、守口での試合でしたよね。

 
──そうです。ワシントンがケガを負った守口の試合の後で、「このアクシデントがなければ、僕らは今シーズン全勝するんちゃうかと思っていた」と仰っていました

それも覚えています。あのときのチームは、すごかったですね。

 
──逆にリンのアクシデントがあったからこそ、チームがより結束したみたいなこともあったのではないですか

そうですね。リンがケガをした次の試合が、アウェーの富山(グラウジーズ戦)やったんちゃうかな。どうなるかなと思っていたけど試合では(仲村)直人とJと、あとだれを使っていたかは覚えてないんだけど、そのゲームでまあまあできた。これはリンが帰ってくるまでは、なんとかなるなと思っていましたね。それからはジェフもそうだし、マイキー(・マーシャル)がすごく頑張ってくれて。彼の活躍は、すごかったですね。直人とJのプレータイムも多くて、彼らも頑張ってくれました。

 
──リンも終盤に間に合って復帰し、3連覇を達成しました。なんだか、台本があったみたいでしたね

ねえ(笑)。あのときはホンマはジェフがMVPだったよなと思うぐらい、彼はすごく頑張っていましたよね。

 
──とくにリンが抜けてからのニュートンは、大黒柱級の仕事をしていました

すごかったですね、彼は。ああいった状況でステップアップできる人って、なかなかいないんですよ。彼もすごいナイスガイで、すごいファイター。なのにクール、という人でしたよね。

 
──スリーピートをした、達成感みたいなのものはありましたか

とくには、なかったですね。僕はあまり、勝ち負けがどうという人ではないので。

 
──4季目は沖縄(琉球ゴールデンキングス)に準決勝で敗れ、4連覇を阻まれました

試合のなかで、クエスチョナブルコール(疑惑の笛)と感じる判定があったんです。あのときはもう、なんでやねんと思いました。残り4分だったかな。17点差で、勝っていたんです。でもその笛から、試合の流れがおかしくなって……。今になって振り返れば「それは言い訳や」みたいなことかもしれませんが、試合中は頭の片隅にモヤモヤした思いがありましたね。

 
──あの試合後の会見で、いつもは冷静に話されるのに、感情を抑えながらも悔しさを隠し切れずに応対していました

そうですね。そういう感じでしたよね(笑)。それも今となっては、いい思い出ですよ。みんな3連覇のころのことを言いますが、僕自身はそれ以降のシーズンのことのほうが印象に残っているんです。4季目にジェフが、5季目にはJと主力選手が抜けて、このまま沈みかねないなと思っていたんです。でも選手がすごく頑張って、有明のファイナルズには行き続けた。4、5季目のチームはすごく良かったですよ。

 
──bjリーグは開幕からシーズンを経るごとにチーム数が増え、主に外国籍選手の出場に関するなど、ルールも変わっていきました

そうですよね。最初はbjリーグ全体ももちろん、そこに所属しているチームやクラブで働いてる人も含め、みんなすごいエネルギーがあるなと感じていました。なんか、ギラギラしたものがありましたよね。それが時間を経るごとに、ちょっと変わっちゃったなというところは、ありましたね。

 
──確かに。bjリーグの4~5季目は惰性ではないですが、慣れてしまったというか、初期衝動のような熱は多少なりとも落ち着いてきたかなと感じていました

そういうのが、なんか出始めたみたいな時期だったかな。僕は最初期の熱を感じたまま5季目でbjリーグを離れたので、それはある意味、幸運だったのかもしれません。とくに最初の3季までのころは、リーグ全体にすごいエネルギーを感じていましたからね。

 
──2019-20シーズンに、10季ぶりにエヴェッサのHCに復帰されました。2度目の指揮を執られた期間は、チャンピオンシップ圏内にいながらコロナ禍でシーズンが打ち切りになったり、ご自身が病気療養で現場を離れらるなど、波乱が続きました。

そうですね。病気も想定外でアクシデントといえるものでしたし、自分でコントロールできないことばかりでしたね。

 
──歴史の始まりから携わった者として、今後エヴェッサには、どうなっていってもらいたいと考えますか

僕は大阪人やし、大阪のことが大好きな人なんです。だから数ある大阪のスポーツのなかで、バスケットのエヴェッサは存在感があるなと、大阪の人たちに示してもらいたいですね。エヴェッサが勝つところを見たい、そのチームで活躍する選手が見たい。それを楽しみにお客さんがアリーナに来るといった、存在感のあるクラブになってほしいですね。スポーツって、それが大事だと思います。